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大府市内の城址を探索してみた
今年のゴールデンウィークはみなさまどのように過ごされましたか。
私はよく晴れた某日、大府市内でお城があったとされる場所=城址を4カ所巡ってきました。
🏯其の壹 長草城址 ※大府市ウェブサイト未記載 | ||
どぶろくまつりで知られる長草天神さんと延命山 地蔵寺のある辺りが長草城のあった場所のようです。 | ||
城址と示すような石碑や看板などは何もありませんでした。鎌倉時代に地頭の藤田民部が家人の藤次藤左衛門たちをこの地に入墾させたというのが始まりらしいです。城でも砦でもなく屋敷ですかね。せっかく城址らしいムードは醸し出しているので、何らか逸話がほしいなぁ…。あまりに根拠が乏しく大府市も掲載に踏み切れないのかもしれません。 |
🏯其の弐 追分城址 ※大府市ウェブサイトに記載あり | ||
大府北中学校、校門横のフェンスに隠れて大府市製作の看板が立っています。 | ||
その看板には「江戸時代の絵図に城の存在は認められ、昭和二十三年当時の航空写真にも堀に囲まれた方形区画が写っている」と書いてあります。私有地でないことと中学生に郷土史を意識させる2つの狙いがあるように感じます。ものの本よると永禄2年(1559年)稲垣淡路守によって築かれたということですが誰でしょうね。織田信長が尾張を平定、上洛した年なので、信長あるいは松平元康(のちの徳川家康)側の末端家臣かも。市の看板には「時代 不明、城主 不明」とあるので私の妄想にすぎません。でも昭和の航空写真に残るほど続いていたってことは…。 |
🏯其の参 横根城跡 ※大府市ウェブサイトに準じて表記 | ||
メディアス体育館おおぶ の南東辺りだそうです。 | ||
天正11年(1583年)、緒川城(現東浦町)城主水野忠重の家臣梶川五左衛門によって築かれたそうです。水野氏が成岩城(現半田市)を攻め落とすと梶川氏は居城を移すよう命じられ、ここは廃城となったのだとか。 盛り土なのか道路掘削なのか、いずれが往時の姿やら。いずれにしても城だった形跡は感じられませんでした。 |
🏯其の肆 吉川城址 ※大府市ウェブサイトに記載あり | ||
市中心部から国道155号を西へ進み、知多半島道路大府東海IC手前のカフェとセルフうどん店の辺り。石碑があります。 | ||
石碑にはしっかりと「築城 応永四年 一三九七年 廃城 天正八年 一五八十年」と刻まれています。安芸谷相模守を祖とする吉加波(よしかわ)入道が築城したとのこと。戦国時代に入り、花井播磨守信忠、勘八郎父子の居城となったが、1580年堀之内城(現知多市、寺本城とも)へ移り、廃城となったということです。
石碑がなければ、車がビュンビュン通る国道や工場、田畑が広がる開拓地で城址には見えません。むしろ国道の北に見えるこんもりした小山が城があったような雰囲気を出しています。 |
車なら2時間もあれば回れちゃいます。
大府市ウェブサイトには「市内の主要遺跡」として、長草城址以外は記載があります。
城址だけでなく古墳や貝塚、古窯なども情報公開されています。
大府市ウェブサイト「市内の主要遺跡」 ※外部サイトが開きます![]() |
大府市が紹介する以外にもまだ市内に 🏯丸根城址 🏯城畑城址 🏯森岡城址(猪伏村城址) 🏯米田古城 など、かつて城があったようです。ここまでご覧いただいたように、城といっても普通の人が想像するような天守や石垣は残っていません。石碑や案内板もないくらいです。そういうものだと割り切って、空想・妄想たくましく見学するんです。 |
郷土を知る ─ ─ 小学校にしていたことを大人になってしてみるのもたまにはいかがですか。
私はまだ興味はないのですが、貝塚などもいつか行ってみようかなと思ったりします。